絶望への階段

1.
その日、俺は生まれて初めて女を殴った。
その日、俺は生まれて初めて人を心から殺したいと思った。
その日、俺は生まれて初めて人を心から憎んだ。
その日、俺は生まれて初めて愛が幻想に過ぎないことを知った。
その日から、俺は壊れた―――

2.
俺と妻は生まれた時からいつも一緒だった。
幼稚園から大学までずっと一緒だった。
俺が生まれて初めて愛した女性が彼女であり、
彼女が生まれて初めて愛した男性が俺だった。
大学を卒業して働き始めた一年後、俺と彼女は結婚した。
俺は彼女を一生愛し続けると誓い、
また彼女も俺を一生愛し続けると誓ってくれた。
幸せだった。
とても幸せだった。
この愛情に包まれた幸せな日々が一生続くのだとと思っていた。

3.
妻と結婚して3年経ったあの日、俺は会社で主任に昇格した。
それと同時に1年間の長期出張を命じられた。
妻は俺について行くと言ってくれたが、妻の母が病気がちだったので
俺はその申し出を断り、母についていてあげて欲しいと頼んだ。
高校の時に両親を事故で亡くした俺にとって妻の両親は俺の両親と言える存在だった。
自分が病気で妻に迷惑を掛けて申し訳ないと妻の母は俺に詫びてくれた。
その言葉と妻の少し悲しげな笑顔に見送られて俺は出張に出たのだった。
今、思えばあの日から俺はこの絶望の階段を
上り始めていたのかもしれなかった。

4.
出張先で俺は文字通り馬車馬の如く働いた。
出張期間は1年と言われては居たが、俺の頑張り次第では
期間を大幅に短縮できるとの事だったからだ。
妻とこれほどの長期間、離れて暮らしたのは初めての事だったので
俺は寂しさを懸命に仕事に打ち込む事で強引に紛らわせた。
勿論、妻は俺以上に寂しがっていると理解していたので
毎日の妻への電話は欠かさなかった。

5.
必死の努力の甲斐あってか、1年と言われた出張を
8ヶ月で終わらせる事ができた。
友人達には嫁さん恋しさにここまで頑張るとは等と
からかわれたりもしたが、俺は妻を心から愛しているのは事実だし
友人達もその事を知っていて茶化しているのだから
嫌な気分にはならなかった。
そして大急ぎで出張から帰った俺は部長の粋な計らいにより
直接帰宅させて貰えた。
電話口でカミさんにたっぷり甘えて来いと言った部長の言葉が
この時は涙が出るほど、ありがたかった。

6.
大急ぎで家路についた俺は妻を驚かせてやろうと家に帰宅の連絡はしなかった。
タクシーから飛び降りた俺は、こっそりと家に入り妻の姿を探した。
一階には妻の姿が無かった。
大方、昼寝でもしているのだろうと俺は二階の寝室へと向かった。
そして、そこで信じられないモノを見てしまった。

7.
寝室には正常位で見知らぬ男と絡み合う妻の姿があった。
その瞬間、俺の中でとても大切な何かが壊れた。

8.
気がつくと、見知らぬ男が顔を血まみれにして寝室の床に
仰向けに倒れていた。
咳き込んで血を吐いているので生きているのが判った。
妻は全裸で俺の左足にすがり付き、泣きながら
「ゴメンナサイ、ユルシテクダサイ」と連呼していた。
俺の両手が血に、まみれていた。
状況から察すると俺がこの男を殴ったらしい。
そして妻のこの姿…
左足にすがり付く妻の下半身から白く濁った液体が大量に流れ出るのを見た
俺は生まれて初めて人を殺したいと思った。

9.
妻の顔を平手で思いっきり殴りつけて足から引き剥がし、
男のわき腹を思いっきり蹴飛ばし起き上がらせ、
二人を俺の正面に正座させた。
湧き上がる殺意と怒りを必死に抑え俺は二人から事情を聞こうとした。
男は大量に鼻血を出しており上手く話せないようだったので
ベッドからティッシュの箱を取り男に叩きつけた。
妻が男を手伝おうとしたので、また平手で殴りつけて
黙ってろ、動くなと命令した。
妻は酷く怯えた顔で俺を見て直ぐにうつむいて黙った。
ティッシュで血止めをしている男に俺は問いかけた。

10.
男の名前はxxxx xxxx。
俺と同い年の男だった。
勤め先はウチの子会社で2歳年下の妻がいるらしい。
妻とは妻のパート先の弁当屋で知り合ったらしい。
以前から客として弁当屋に来ており気になっていたらしい。
始めは俺との事を相談に乗って貰っていてその内に更に親しくなり
5ヶ月前から肉体関係を持っていたらしい。
これだけを聞き出すので随分と時間が掛かってしまった。
男も協力的ではなかったので更に殴られる羽目になってしまった。
全く馬鹿な男だ。
そして左手で頬を押さえうつむいて正座をしている妻にも
事情を聞くために問いかけた。
妻の説明も男とほぼ同じ内容だった。
ただ、事情を話す合間にずっと
「アイシテイルノハ、アナタダケナノ」とか
「ゴメンナサイ」「オネガイダカラユルシテ」と言って
事情を話さなかったので数発平手打ちで殴ったが。

11.
事情を聞き終えた俺は、これからどうしようかと悩んだ。
しかし、悩んだ所で今の湧きあがる殺意と怒りで
考えなどまとまる筈もなく、
ただ全部が面倒になった。
もう良い、もう良い。
何もかも、もうどうでも良い。
この体中に湧き上がる怒りに任せてしまおう。
こいつらに思う存分怒りをぶつけてやろう。
良いじゃないか、何をしようが。
こいつらは俺に許されない事をした。
何故、俺だけがやられたままで居なきゃならんのだ。
こんな奴らの今後を心配しなきゃならんのだ。
やられて黙ってるほど俺はお人好しだったのか?
否、否、否!
断じて否!!!
 全 部 、 ど う で も 良 い !!
ただ、あるのは怒りだけ。
この怒りを思うまま解き放つだけ。
俺の怒りを思い知れ!!!
俺はこの時、あらん限りの声で怒りの雄叫びを上げていた。

12.
まず、正座して居る間男の顔に思いっきり蹴りを放った。
間男は体ごと後ろの壁に叩きつけられたが俺は構わず
そのまま間男を蹴り続けた。
顔、肩、腹、足と所構わず蹴りまくった。
蹴り続けるのも疲れてきたので一度、俺の部屋に戻って
バットを持って来て、それで殴り続けた。
10分位だろうか、間男は動かないし反応もしなくなったので
殴るのを止め、妻の様子を見た。

13.
妻は引きつった顔でこちらを見て
冬山で寒さに凍える登山者の様に全身を震わせていた。
この顔の何と醜い事だろう。
これが俺が一生愛して行こうと誓った女なのか。
信じられない。
信じられないほどに醜い。
俺は、こんな醜い女に今まで騙されていたのか。
また俺の全身を怒りが包み込む。
ふと頬が濡れているのに気がついた。
涙だった。
俺は怒りのあまり涙を流していた。
俺は涙を拭かず妻に近づいた。
妻が震えながら後ずさる。
妻だった醜い女は「ゴメンナサイ」
「オネガイダカラユルシテ」
「アイシテイルノハ、アナタダケナノ」などと
訳の判らない言葉を口にしていた。
俺は何故か、また雄叫びを上げたくなった。
そして一瞬だけ天井を仰ぎ見て目を閉じ
妻だった醜い女に殴りかかった。

14.
気がつくと俺の足元には
物言わぬ、醜い肉の塊が二つ並んでいた。
それを見ても俺は何も感じなかった。
ただ、空っぽだった――――

15.
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
インターフォンが鳴っているのに気がついた。
ただただ面倒で、とても相手をする気には
なれなかったので、そのまま放っておいた。
暫くの間、醜い肉の塊を、ただただぼうっと
見つめていた俺は、近くの押入れから縄を
取り出して天井の柱にくくり付け首を吊った。
もう何もかもどうでも良い。
そう思ったので死ぬことにした。
これでやっと落ち着いて眠れるよ…
-終-

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